佐藤勇人選手 現役引退のお知らせ
佐藤勇人の2019シーズンをもっての引退が発表された。
育ててもらった千葉が台風の影響で大きな被害を受けている時に自分個人の事を発表していいものなのか、とても悩みましたがお伝えすることにしました。
12歳からジェフのユニフォームを着させてもらいましたが、その大好きなユニフォームを脱ぐ時が来ました。
ファン、サポーターの皆さん、そして支えてくれた家族、チームメイトやクラブスタッフなど、多くの方に支えられながらここまで続けて来ることができたことに感謝しています。
ただまだシーズンは残っており、最後までジェフの一員として闘います。引き続き熱い応援を宜しくお願い致します。ファン、サポーターの皆さまへは改めてお話する機会を設けさせていただければと思います。
勇人が今シーズンをもっての現役引退。37才という年齢を考えればいつこの発表があってもおかしくないので心の準備はしていたが、ついにこの時が来たかという感じだ。
小学6年生の時、埼玉在住だった勇人と寿人は育成に力を入れているクラブということでジェフのセレクションを受ける。しかし受かったのは寿人だけ。勇人は2回チャレンジし2回とも落ちている。寿人のために家族で千葉に引っ越し、寿人はジェフで、勇人はくやしい思いを抱えながら他のサッカーチームで練習をする日々。
そして寿人の強い推薦もあり、ジェフのコーチが勇人の試合を見に来て、ジェフの練習に誘われ入団が決まるという珍しい形でジェフの一員になった。しかし高校生になった勇人はサッカーするより遊びたいとチームを離れてしまう。日本代表のユース合宿へ呼ばれた時に、日焼けサロンに行くから嫌だ。と言ったのはもはや伝説だ。
一度はチームに戻るものの、再びチームを離脱。2回もサッカーから離れる危機があったものの、2000年には寿人や阿部勇樹と共にジェフのトップチームに昇格。2004年から背番号7に。ジェフの7番といえば勇人だよね。
オシム監督時代にはチャンスと見るや3列目からFWを追い越しゴール前に入っていくプレイで、2005年には勇人が8得点、阿部が12得点とボランチ2人で20得点を叩き出した。2005年、2006年のナビスコカップ2連覇にも貢献してくれた。2006年には広島の寿人と共に、日本代表としてアジアカップの予選で同時にピッチに立っている。ジェフのセレクションに落ちた男が、2度サッカーから離れた男がここまで這い上がった。
2008年、クラブの方針に不信感を持っていた選手達が移籍。水野、羽生、山岸、水本など主力選手と共に勇人もジェフを去った。前年には阿部も移籍しておりチームは別の顔へ。ジェフは最終節を迎えた時点で自動降格の17位。条件的にも絶体絶命だったがフクアリの奇跡を起こし、まさに奇跡の残留を果たすものの、翌シーズンにクラブ史上初のJ2へ降格。
そしてジェフがJ2降格という最も厳しい事態を迎えた2010年、勇人は戻ってきた。ジェフをJ1に戻すために。しかしそれから10年、ジェフは未だにJ2でもがいている。今年もJ1復帰は叶わなかった。勇人としても、この状況で引退を迎えたのは不本意だろう。
勇人がジェフのユニフォームを着る姿が見られるのは残り6試合。人生の大半をジェフに捧げてきたレジェンドのプレイを目に焼き付けたい。